勝手に奥出雲探求レポート

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三井野原スキー場 ~歴史編その2~

三井野原スキー場 ~歴史編その2~

Wさんから「川西さんに聞いた方がもっとわかるかもしれないよ」という事で、即、現三井野原観光協会会長の川西さんに連絡をし、翌日ご自宅にインタビューをしに行きました。ドキドキしながら伺ったのに、ドキドキ損です。出迎えてくれた川西さんは温かいオーラに包まれた方で一安心。

川西さんは2代目という事ですが、お父様がこちらに来られた時のお話をご存じですか?

「私の父は香川県から入植しました。香川県から委託を受け、島根県庁の案内で三井野原に視察に行ったんです。汽車が開拓地を通っているのが魅力的でこの土地に入植したんです。生活をしながら開墾をするのは簡単な事ではありません。生活費が必要ですからね。切った木を売ったり、営林署に出稼ぎに行ったりしながら開墾をしていたわけです。食料は、米は配給制、野菜は栽培をしていました。この時の住所は広島県、行政サービスは島根県から、という矛盾があり、昭和32年に三井野原も島根県になったんですよ。」

何でスキー場を作ったんでしょう?こんな広い土地を開墾するなんてホントに大変な事なのに

「昭和24年にスキー場は開設されました。スキー場を作ったのは、三井野原に駅がほしかったから。そして、冬季期間の収入を確保したかったからです。昭和26年に、高松宮殿下が来られた事により、三井野原は一躍有名となりました。そしたら、思いのほかたくさんの方に来ていただくことになり、改築前のただの民家はお客さんでぎゅうぎゅうづめでした。お金をもらったかさえわからない状況だったんです。我々もおもてなしのプロではないからとまどいましたね。あまりにも、宿泊客が多く手におえない状況の中、ナイタースキーを始めたわけです。お客さんに夜中も滑ってもらい、順番に休憩してもらおうという作戦です(笑)」

↑入植1周年記念(昭和24年10月)

当時ならではの珍事件はありますか?

「民宿には暖房器具がなく、炭こたつに足をつっこみ寝ていました。炭の不完全燃焼で朝起きて頭が痛いっていう人もいたね。家に隙間があったから一酸化炭素中毒になる人はいなかったからよかったよ(笑)」

川西さんの幼少期の面白エピソードも聞かせてもらいました。

「サラリーマンに興味を持ったのもこの頃。サラリーマンが1週間くらい泊まっててね。電報が送られて飛んで帰るっていう感じだったんだ。子供のころは、『サラリーマンって遊んで暮らせるんだ』って思って憧れたね」

お客さんとは凄く近い関係だったんですか?

「そうですね。お客さんも家族同然でのんびり楽しく過ごしました。

こんなハイカラなお客さんもいらっしゃったようです。

岩国のアメリカ兵も三井野原スキー場に来ていましたよ。英語も分からないし、文化も違うしでとまどいの連発ですよ。靴を脱いでもらう事なんか手振り身振りで説明したものです。食べ物も一苦労です。何を出していいのやら困りましたが、彼らはバターを持参していましたからジャガイモを出していましたね。私はアメリカ軍からチョコをもらった記憶があります。ヘリコプターでやってきてキャンプをしていたこともあったなぁ。家の前にヘリコプターが降りたんですよ。」

三井野原駅竣工・開業記念(昭和33年9月)

1代目が高齢化し、亡くなられた方もたくさんおられます。川西さんのお話は今後、貴重な話になっていくと思います。

今回のミッションコンプリート・・・島根県外からもたくさんの方々が入植し、開墾した土地。夏は高原野菜・冬はスキー場!

戦後、何もない時代に入植し、開墾するのは簡単な事ではありません。入植された方々の大変な努力があって、で現在私たちはスキーを楽しむ事ができるんですね。三井野原の歴史を知り、三井野原に魅了されたい~ちゃん。スキーに挑戦してみようかなぁ。



 

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